carpediem1989のブログ

日々感じたことの備忘録

賢い医師生活 Hospital Playlist

Netflixシリーズの「賢い医師生活」というドラマが大好きだ。

数年前のドラマだが大好きすぎて今なお定期的に見返しているので、今日はその思いの丈をただただ書き連ねたいと思う。

 

まず、賢い医師生活は現在シーズン2まで配信されており、一旦終了した形になっている。(個人的にはもっと続いてほしいけれど…)今のところ過去回想編の様な形でシーズン3が制作されているとかいないとか噂が出回っている。

 

主となる登場人物は5人。5人は大学時代に医学部の同期として出会って、バンドを結成。大学時代から20年来の親友であり、各自専門は違えどそれぞれ優秀な医者として生活していた。ひょんなことからシーズン1の第1話で5人全員が同じ病院に再集結する所から物語は始まる。

 

このドラマの大好きポイントは3つ!

①メイン5人と周囲のキャラがとにかく良い

大学時代の話も出てくるし、病院内は出演者数が多く最初の数話はキャラクターが混在する。でも見ている内に、確実に応援したくなるキャラが出てくる(笑)最初は何だかなぁと思う部分があった人もいたのに、話と共に成長したり本質が見えてきたりして段々と愛しく思える。5人を取り巻き、相互に影響を及ぼすキャラクターたちもどんどん大好きになる。ジェハクにミナ、ギョウルにウジュ…挙げだしたらキリがないくらい魅力満点のキャラクターばかりだ。

 

②あくまで淡々と、でも丁寧に描かれる”医者”としての日常

タイトルにある医師生活という名の通り、描かれるのは病院で過ごす1人の”医者”として患者さんや同僚と関わって働く日常と仲間たちとの平凡な日々。手術や当直室での様子、患者さんとの関わり方。淡々と描かれる日常だが、視聴者の私にとっては非日常。そのはずが、このドラマに没入していけるのは、巧みな描き方と関係者の方々の徹底した取材と勉強によるものなんだろうなと感じる。医者としての日常を丁寧に丁寧に描いて、普段の患者側からの視点だけでなく医師側の視点も上手く取り込ませられ、病院で起こる出来事に感情を揺さぶられていく。

 

③最高の選曲(OST

毎回ストーリーに沿った選曲で5人のバンド演奏があるのだが、その選曲と演奏が本当に素晴らしすぎる。流行りのK-POP以外はあまり存じ上げていなかったのだが、このドラマを機に楽曲・歌手・ジャンルの幅を広げられた。その時の心情にあった楽曲は絶妙なタイミングで毎回流れ、ドラマをより盛り上げている。5人の中の紅一点ソンファさんは音痴という役なのだが、本当はとんでもなくお上手な方なのを知っているから、逆に外して歌ってるのがすごくて毎回尊敬してしまう。全曲好きなのだが、1番好きなのはシーズン2のEp.6で歌われているSuperstar。


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全体を通して5人のわちゃわちゃ具合や、豪華なカメオ出演、細部に散りばめられたギャグが本当に面白くて大好き。シーズン2 Ep.10の冒頭部分で登山に関して言い合いした流れから、マクドナルドのテイクアウトを頼みに行くシーンが個人的に本当に大好き。毎回ポテト食べたくなるし、メニューが韓国オリジナルで食べてみたい欲求に駆られる。後は、情報に疎いジュンワンがハリポタネタが分からずおちょくられるシーン。


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各話の中で様々な名言(迷言?)も飛び出すのだが、中でもずっと心に留めておきたいと思っているのが、シーズン2のEp.2。「産科入門」教科書の冒頭ページに書かれた言葉をソッキョンが流産された患者さんに送った言葉。

"Bad things at times do happen to good people(時に悪いことはいい人のもとに訪れる)"

 

長くなってしまったが…気負わず見ることができるし、本当に色んな人にお勧めしたい一作。5人が本当に仕事ができて、ふとした瞬間の仕事の仕方やフォローの仕方も優秀で、見習いたくなるし勉強になるのもいい所。すでに有名かつ人気作といえるけど、まだ見てない方が興味をもってくれたらうれしいな。

"幸せ"について考える

この世には幸せという言葉に溢れている。

それはそれだけ"幸せ”であることに価値を置いている人が多い証だと思う。けれど、実際にその"幸せ”が何なのかを聞かれて、答えられる人は少ないだろう。

幸せはその人の価値観や状況によって左右される不確定要素の多いものだからだろうか。

 

ある友人は、幸せな時はその時点で幸せに気付かないのかもしれない。振り返って、幸せだったと思うことの方が多い、と言っていた。確かに。

 

「幸せになりたい」と誰しも願っているだろうに、対して自分が幸せでないことに若干鈍い気もする。我慢することが美徳の考えのもとでは、小さな不幸や不満には慣れてしまうのだろうか。それとも、心が正常に判断できなくなっているくらい麻痺しているのか。あと、他人の幸せを妬む傾向も(笑)比較する/される癖がついているからかな。

 

今年の目標は「自分の幸せについて考えること」。どんな時に自分は心が軽くなり、安心できるのか。我慢し慣れてしまった自分の心と身体について考える時間と余裕を作りたくて、会社を辞めた。

 

私は私が幸せでいれるようにこれからも願うし、その為に行動する。

自分の手のひらで抱えられるくらいの愛する人たちの幸せも願っているし、何か助けられることがあるのなら喜んで手を差し伸べる。それでも、やっぱり私は私が一番幸でいたい。

人は鏡

もともと人見知りなのに、年を重ねるにつれ他人と深く関わることが(というより、他人に自分の深い部分を開示することが?)苦手になっていて、自分のことなのに自分でコントロールできなくてもどかしいなとよく感じる。

他人はあくまで自分と別の生物なので、コミュニケーションには力がいる。その力の加減がうまくできなくて、他人と関わる時間が多すぎると疲弊してしまうタイプだ。どれだけ疲弊しても、他人とのコミュニケーションを完全に断つことはしていないし、できないと思っている。面倒臭いなと思うけど、自分の知見が広がって面白いと感じるのもまた他人との関わりの中で生まれいるからだ。

 

他人と関わるときの信念がある。それは「人は鏡だ」という考え方だ。

人は鏡だ、と言ってもその考え方は様々だろう。私の信念に近いのは、自分のしたことが返ってくるというものかな。相手に誠意をもって対応してほしいのであれば、自分がまず誠意をもって対応する。自分が実行することで初めて自分が同等のものを受け取る権利を得られる、という考えだ。だからといって、相手に期待するわけではなく、自分がしてもらいたいと思うことをやってみるだけ。

結局は自分のしてほしいことをしているだけなので、自分本位だなとも思っているが、この信念で行動し始めてから自身の行動を冷静に振り返ることも多くなったし、他人との関わりの判断基準にもできていて自分には合ってそうだなと思っている。

 

まぁ、こんなことをずっとぐるぐる考えながら他人と関わっているから、想像以上に疲弊するんだろうな(笑)

無意識の色眼鏡

自分がかけている眼鏡を意識したことはあるだろうか。

 

先日、「自分がかけている眼鏡」について考える講義があった。

私たちは、物事の見方を決める眼鏡をかけており、その眼鏡は無意識の内に色付けされている。どんな眼鏡でどんな色がついているのか、一度外して考えてみようというものだった。

 

例えば、国籍・人種・家族構成・居住地・自分自身の経験などによってそれらは色付けされている。なるほどと思いながら実際に書き出してみると、両隣の人とは異なる自分だけの色眼鏡がそこにあった。

 

 

ここ数年の私の目標は、物事をなるべく俯瞰的に中立的に見て判断できるようになることだった。

だが、誰しも己の眼鏡/フィルターを持っていて、それには少なからず個々の色が付いていると考えると、物事をそのまま捉えることはほぼ不可能なのかもしれない。

 

個人的に、無意識なものであるからこそ「色眼鏡を外す」なんてことは難しいと思う。

それでも、自分の考えを発する時に、自分には自分の色眼鏡がかかっていることを意識するのとしないのとでは大きな差があるのかもしれない。

 

同じ時に同じ世界を見ていても、全く同じ様には見えていないかもしれないと思うとなんだか不思議だ。でも、だからこそ他人の話を聞くのは面白いし、ちょっぴり妬ましく感じることもあるんだろうなと思う。

よそはよそ、うちはうち

前回のブログにも書いたように、私は不登校になったことがある。

 

色々面倒臭く感じて、再登校するようになったのだが、それによってあることが起こった。

 

不登校になっている子たちの説得を先生やその子の親御さんから遠回しに頼まれるようになったのだ。

今考えても、意味不明だ…

 

その時は断る勇気がなく、流れに身を任せていたのだが、私ができたのは話を聞くことだけだった。

自分も不登校になったからこそ、強要だけはされたくないし、したくなかった。

 

不登校の理由はもちろん人によって違うし、不登校から学校に復帰しようと思えるきっかけも人によって違う。それを同じとして見てしまっているところが1番の落とし穴だ…

 

よそはよそ、うちはうち。

私が小さい頃から物をねだると言われた言葉だ。

みんな分かってる。よそはよそ。他人は他人だ。

 

最近は『多様性』という言葉に押し込めて、何でもかんでもやりすぎだと感じるのは私だけだろうか。もちろん他者への理解や配慮は社会で生きていく上である程度必要なことかもしれない。

 

でも所詮は他人と割り切ることも、多様な生き方を認める社会で重要なのではないだろうか。

 

人生に『逃げる』というコマンドは必要

大ヒットドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』は私の大好きなドラマの1つである。

タイトルはハンガリーの諺で、「自分の戦う場所を選べ」という意味らしい。

 


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逃げるは恥だが役に立つ。とてもいい諺だ。

日本人はもっと『逃げる』ことを当然の選択に入れていいと私は思う。

 

日本人は逃げることに批判的すぎる。それは甘えであり、最後の手段だと擦り込まれている気がしてならない。

 

私は一時期学校に行けなくなったことがある。学校にさえ着いてしまえば大丈夫なのだが、行くまでがどうしても体が動かなかった。その時の私には、自分がなぜそうなるのかもよく分からなかった。両親も心配してくれていたし、学校の先生も心配してくれて、何度も何度も相談の機会を設けてくれた。けれど、うまく理由が話せず、段々そうしてくれることが辛くなり、自分さえ我慢すればみんなを困らせないと気持ちを封じ込めて無理矢理学校に行くようになった。表面上は私は元の私に戻った。でも、ふとした瞬間に何気なく学校に通っていることが気持ち悪く感じた。そう感じる自分はおかしいと思い込み、誰にも相談できぬまま、私は学校を卒業した。

 

今振り返ってみると、女子特有のグループ行動や、学校生活の仕組み、自分が模範生として扱われることなど様々なことに嫌気が差していたのだと思う。

今でも思い返すと辛い気持ちになるが、1番辛かったのは両親に受け入れてもらえなかったことのように思う。両親は私に『逃げる』という選択を与えてくれなかった。

 

辛くて1度休んだら、ずっと行けなくなる。頑張って行こう。大丈夫。休んだら癖がつくよ。泣いてちゃ分かんないから、理由を言って。お父さんもお母さんも辛いんだよ。頑張ろう。

 

両親は優しかった。でも、私にとって2人の言葉は凶器だった。自分でも訳が分からなくて苦しくて、なのにまだ頑張れと言われる。どうしても苦しくて、嫌なことなのに、何故休んではいけないのか。勿論両親が言うことも分かるが、私が欲しかったのは『休んでもいい。逃げてもいい。家で勉強したらいい。』という言葉だった。

 

大人になるにつれ、たくさんの人に出逢い、いろんな考えの人と出会った。

『嫌なことや苦手なヒトがいたら、別に無理に付き合わなくて良い。距離を置きなさい。』『学校は別に行かなきゃいけない場所じゃないよ。』

本当に有難いことに、こう教えてくれる人にもたくさん出逢うことができ、その言葉に救われながら私はいまも生きている。

 

人生に迷うこと。嫌なものやヒトにぶち当たること。たくさんある。でも、わたしたちは『逃げていい』。

 

どうか、『逃げる』というコマンドを世間体や見栄で捨てることはせず、ずっと自分の1番近くに置いておいてあげて欲しい。

逃げるは恥だが役に立つ。みんなで逃げ回りながら笑って泣いて生きようじゃないか。

三浦春馬さんという人

どうしてもあの日から胸の中に燻りが残っていて、ずっと靄が晴れなくて…

自分の中にあるものを整理できたらいいなと思って、衝動でブログを始めてみた。

 

三浦春馬さんのニュースがあった時、私はいつも通りの日常を送っていた。もうすぐ定時かな…とふと携帯で時間を確認した時、友人からの「三浦春馬くんが…」というメッセージの通知が目に留まりました。気にはなりましたが、もうすぐ退勤。そのまま携帯を伏せました。

会社を出て、エレベーターに乗り、何気なく開いたTwitterで『三浦春馬 自殺』という衝撃の2文字を目にしました。瞬時に先程の友人のラインはこれか!と思いました。

 

エレベーターを降りたところで立ち止まり、しばらく動けなくなりました。目の前の景色はいつも通りで、私はあと10分で発車するバスにいつも通り乗る。なのに体が動かない。

 

こんな事を言うと誤解を生むかもしれませんが、正直に。私は三浦春馬さんの大ファンというわけではありません。なので、そんな状態になっている自分に本当に驚きました。興味があれば出演されるドラマは見ていたし、名前は勿論存じ上げている。それだけでしかなかった自分でも、受け止めきれない衝撃と悲しみに襲われました。

 

動揺したまま家に帰り、テレビをつけて音楽の日を観ました。本当に還らぬ人となってしまったことを痛感し、ずっと涙が止まらなくなりました。

 

悲しいことですが、芸能人の方が亡くなられたニュースを目にする機会は少なくありません。それでも彼の死はとても身近に感じられ、胸の奥深くまで突き刺さりました。

 

それは、三浦春馬さんが老若男女に嫌われることなく、幅広く、でも中庸に、そして何事にも真摯に取り組まれてきたからだと思います。

 

いくら願っても失った生命を元に戻すことはできません。あまりにも烏滸がましいことですが、何か出来ることがあったのではないかという後悔が心の奥底に引っかかっていて、ずっと燻り続けます。

 

言葉の使い方を考えること。そして、感謝と愛情は積極的に言葉にすること。

私は人間は最大の凶器だと思っています。言葉を使えるという能力は、人間に与えられた最大の武器であり、最大の凶器です。使い方一つで、人を生かし、人を殺します。

可能な限り他人を、少なくとも自分の周りにいてくれる人を傷付けない話し方や行動を身につけたい。前から感じていたことが、自分の中で確固たる思いへと変わりました。

 

三浦春馬さん、あなたを失ってからでしかこんな単純なことに気付けなくてごめんなさい。

ありがとう。大好きです。

 

どうぞ安らかに。

 


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